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土浦協同病院 [雑感]

お店から徒歩10分くらいのところにある総合病院です。

ここの産婦人科には大変お世話になりました。特に部長先生の大原先生はほんわか優しく、丁寧にお話を聞いてくださり、説明もわかりやすく、先を急ぐようなこともなく、安心してお話が出来ました。

勿論、私が診てもらったのではなく、家内が診てもらったのです。家内は高齢出産ということやそのほかの事情もあり、何年かにわたり診て頂きました。

夫婦揃って説明を受けるようなときに何度かお会いしたのですが、この先生ならお願いして大丈夫という安心感がありました。お医者様に限らないのでしょうが、この安心感、信頼感が何よりも大事だなぁと思います。

先ほど、他の用事で「土浦協同病院」を検索したときに、先生はどうしているかしらと思い、先生のお名前を探したら、移動されていることがわかりました。田園都市レディスクリニックというところだそうです。

きっと新しい移動先でも、多くのいのちを授かることを願うご夫婦、いのちがこの世に無事に産まれてくることに、直接的に、そして総合的な立場からも、ご専念されているでしょう。ご縁があった方はきっと、安心して、大事な人生の節目に臨まれていくように感じます。

出産からはもう4年近くたちましたが、その前の何年間も含め、お世話になりました。お忙しい先生なので、あれやこれやと沢山お礼をしたりせず、お会いしたときのみの挨拶しかしませんでしたが、今でも感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。

多くの人の支えによって、多くのいのちが生かされていることを実感しました。

勿論、他の先生も大変安心感があり、さらに看護師さんも助産師の資格を持った方が多く、何より人間的にあたたかな方がばかりでした。

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私たちのお店です。薬店&フラワーエッセンス「小さな森の泉


つい反応してしまいます [雑感]

性格というものは、自動反応的なものに様に感じます。その自動反応的な言動によって、自分に良い結果が応答として得られれば自分の好ましいところ、そうでなければ、嫌なところと感じています。そして自分と周囲はその嫌なところを修正するように迫り、そうしようと頑張る人も、反発する人もいます。

「私は・・・」という私は性格です。意識的にも無意識的にも。

私たちの本質は「性格」でしょうか?

私は人の集まるところ、例えば仲間とお酒を飲むような場合、あの人は楽しんでいるかな、妻ららいかな、・・・なんて、ホストでなくても、参加している人が気になってしまいます。お酒を飲むような場合でなくても、人がいると、目の前の人に自動的に反応してしまいます。その反応の仕方が何か役に立つことはないかなぁ・・・・、どうかなぁというものです。少しでも役に立っているような実感があればいいのですが、それがないと落ち着きません。まるで自分が役立たずのような・・・。実際は誰もそんなことを思っていないことが冷静に考えればわかることですが、自動的に反応しています。

自分の中で、あるがままというか、素のままの、そのままの姿では、いけない、いけないと言っているように感じます。だから、無意識的にも、私の場合であれば、相手に役に立つようなことをしたいという衝動にかられる感じです。

私も、誰もが、自然の中の一存在として、後にも、先にも、唯一で、決して同じものはないのに。結構自分をないがしろにするかのように、何かになろうとしています。

そして、気がついたときには、本来の自分の姿は感じなくなっています。まさに、青い鳥を求めてですね。性格、自我の働き・・・これらは生活をする上で必要ですが、心理的に、自分を責めたり、他人を責めたりするような働きもします。それも多くは妄想に基づいているように感じます。

外界の刺激に対して、自動反応している姿、そんな姿や、そのメカニズムに気づいていくことが、自動反応の支配から離れていくようです。

このことが、本来の自分に還ってゆく、自分になってゆく、自分を大事にする。。。。自分を生きるという事なのかなぁと感じています。一度しかない「生」を大事にすること。

こんな思いがあって、鈴木秀子先生が提唱するコミュニオン、傾聴を学んだり、内観、Tグループと様々なワークショップに参加しています。


気づくって難しい [雑感]

自分の気持ちや、感情を無意識なこころの検閲官なしに気づくって難しいように感じる。

何となく嫌な気持ちとか、むっとしているとか、モヤモヤ、やる気が出ないような感じ、私の場合はダルイ感じ。

「頑張っている自分」に気づくことってあまりない。「あぁ、俺って頑張っているなぁ、ちょっと休もう」とかあまり思わない。

例えば、朝いつもより寝坊したとする。人との約束などに大きな影響を与えたりしないのに、「あぁ、やっちゃた、まただ、いつもそうなんだよなぁ」と、少しどんよりした天気のような気持ちになる。すぐに気分転換ができるといいけれど、何となくその気持ちを引きずりながら、その日を過ごす。

ただ、事実は思ったとおりの時間に起きれなかった。自分が期待していたことをできなかった。それがあるだけ。原因は身体が疲れていたのかもしれないし、こころが疲れていたのかも知れないのに。時間通り起きれない自分を怠け者だと思ったり、どうすれば、早く起きれるようになるかと自分を励ましたり。

現実は、遅く起きたときに、次に必要なことをすることであり、そこで学ぶことがあれば学ぶことであり、いつまでも自分を責めたりして、嫌な気持ちを起こさせっぱなしにしないことである。

「常に」(曲者である)、早起きし、時間を有効に使いたいとか、あぁすれば、こうすればいいとか思っている自分がいるようである。

あぁすれば、こうすれば、と試行錯誤しながら、早起きできるようになって、良いことがあるのも良いことなんだけれど。でも、私の場合、この「あぁすれば、こうすれば」と考え挑戦するのも好きなんですね。でもやった結果できないこともあるわけですし、できないことも、いろんな事情で増えてきたりするし。

こうやって日記を書くことで、自分を振り返って、日常の小さなことひとつとっても、そこにいつもの頑張り好きな私がいるわけなんですね。

それも、無意識に頑張っている自分の「姿」が少し感じてきました。頑張るのは悪いことでも、良いことでもないと思う。でも頑張りすぎている「自分」に気づかないことは、自分を雑に、ないがしろに扱っているようだと感じる。自然な存在である「自分の存在」。それを大事にしようと思う。

ダルイ気持ち、嫌な気持ちは何かを教えてくれる、気づかせてくれるサインなんだと思う。

 


本音を知っている? [雑感]

自分の本音を自分はよく知っている。。。と私は思っている。

 時折、分からなくなるけれど、殆どは知っているつもり。そして自分に正直だったり、素直だったりと思っていた。

でも、知っていた自分はほんの一部だった。自分は知っているけれど、無意識に、意識的に人に隠している自分もいる。人は知っているが自分は知らない自分もいるようだ。そして自分も人も知らない自分もいるんだということが、分かってきた。

本音というか、無意識の領域にある心の動き。

知るきっかけは、様々なこと、様々な問題に遭遇し、思ったとおりに行かず、それでも、何とか、自分の力を振り絞って、頑張った。思ったとおり行かないのが世の常とは言え、とても起こって欲しくないことがおきる。それは仕事だったり、家族のことだったり、人間関係だったり。。

肩が凝って、頭痛がして、お腹が痛くなって。。。そんなことは誰にでもあることだけれども、そんなことが、あるときは長いこと続いた。

そんなきっかけがあって、エニアグラムを学んだり、コーチングや、多くのワークショップに参加した。安心、安全の中で、どんなつまらないように思える話でも、大事に聴いてもらうことができた。

そんな中で、自分は自分のことをよく知らないのだなぁと思うようになった。逆に自分に無理をさせていたことにやっと気づくようになった。

様々なこと柄、あらゆる問題、日常のことに向き合うときの「自分の特徴」を知ることが大事なんだなぁと思う。

そこにはあるいくつもの自分のパターンがある。自分らしいと言ってしまえば、それまでだが、子供のころの思い込みによって作られた自分のイメージがある。そのイメージにそって、現実の事柄(問題)に対応するので、いつも似たような結果を招いて、いつもの気分になっている。

こだわっている自分、無意識に動いている自分、自動反応的に動いている自分。

いつもの古いパターンで、新しいことに対応している。

そんな自分の姿に気づくこと・・・汝自身を知る・・自らを知り、敵を知れば、(敵・・・相手を知るより先に、自分を知ることが大事なんだなぁと)

では、どうやったら、そんな自分を知るの。

自分を知りたい、大事にしたい。そんな思いがスタート。

学習ジャーナル(日記のようなもの)をつける、自分が心地よく解放的できる場に参加する、

・・・色々その人にあったものが見つかってくると思う。

自分と出会う、自分発見。

それが人生なのかも知れない。

 

 


タグ:汝自身

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