境界と自律 [思い]
何から何まで面倒を見てもらう子ども時代。
他者との境界は育っていく段階。そう境界を確立していく段階。
境界が育っていない親は確立の後押しが難しい場合がある。
自分と親との間に明確な境界を築いていないと、子どもは親と一体化した関係を脱することができない。
そのまま放置すれば、他の人間関係を築く上でも同じパターンをなぞることになる。
いつも他者の面倒を見なければとなってしまう。どんな状態の自分であっても。
そして、境界の確立と自律は健康に不可欠である。
境界は目に見えない。
それは「私」というものを意識的に定義しようとするときに、心の内奥に感じる感覚である。
このプロセスは「人生と人間関係に自分は何を求めているのか、もっと何を欲しいものは何か、減らしたくないものは何か、欲しくないものは何か、私が超えたくない限界はどこまでか」と自分に問うことから始める。
こうして私たちは自分を定義しようとする中で、今という特定の時に、自分の内奥にある中核に照らして、自分は人生に何に価値を置き、何を欲しているかを明確に知る。
自分を支配する中核は自分自身の中にあるのだ。
要するに自律とは、私たちを支配するこの内奥の中核を成長させることなのである。
ここまでは、外国のお医者さんの見解。
他者の状況や気持ちに勝手に無条件に反応して、自分自身を越えてゆくのは、まさに他律ですね。
自分を振り返って、中学、高校と上がるに従って、独立、自立は知らずと自分のテーマになってゆく。親がかりだけれども、「自分で決める」その力を大きく育てる。
親からすれば「自分のことは自分でしろ」という風に変化していく。
かなり偉そうになっていったなぁと今は思う。
大学進学、就職と相談せずに決めて行った。お金は誰に出してもらうの?という自己突っ込みはあるけれど。
段々と口を出すことは少なくなっていったと思うが、心配していたと思う。でも、「俺は大丈夫なんだ」という事を親や自分に示したかったのかも知れないと今は感じる。
周囲から見れば、いつまでも「おとうちゃん、おかあちゃん」の甘えたような、自信の無い子どもに映っていたかも知れないなぁと思う。
少し別な視点も浮かぶ。
エニアグラムと言うと私はタイプ2だと思っている。境界が築きずらい。
元来そういう資質を持った脳であり、自我なんだなぁと思う。育ちに「すべて」影響を受ける訳ではない。
だからか、タイプ2幾つになっても、他者との境界は引きづらい。他者の様子がとても気になるのだ。
しかし、私の親は見守り、ある意味突き放してくれた、干渉しすぎということはなかった、好きにやらしてくれた。
親になり、自分の子やよその子を見ると、親や親しい方に甘え上手と思うことが多い。羨ましいと感じることもある。おじさんになっても甘えたいという心は在るのだ。
そんな性質があるのを親は知っていたのか、弱弱しく感じたのか、逆にのびのび自由を旨として育ててくれ、私の中にもそれに応じる事が出来るものがあったのだと思う。
今も自己愛的な苦痛が残っていたとしても、もっと広大なものが私の中に育っている様に感じる。
子ども時代を振り返ると、尊敬できる先生や先輩の言う事、為すことを素直に信じ、無条件に受け入れていた時代があった。そうする事によって他者に受け容れてもらえ、そこに「喜び」があったのだ。
それを幾つになっても、無条件にするのはどうかなと思う。
他者は私をあなたを面倒を見る為にいるのではない。この当たり前こと、冷たいとかそうでないとかではなく。
要は自分自身の面倒を見る力を育てる事なんだ。中核を成長させることなんだ。
タイプ2はその中核を育てると他者に受け容れてもらえ以内という思い込みの精神構造が動いている。
意識的に育てることだ。他者は中核を育てたあなたに安心感を持つのだから。
中核を持って育ってもらうことを阻害する他者はきっと同じような思い込みがあるに違いない。
そんな思い込み、幻想、フュージョンから抜け出るのだ。
思い込みを取る方法というか、心を成長させることは出来ることは朗報だ。
無条件に聴いてもらうことは、最も辛い思い込みに気づき手放すことを可能にしてくれる。
自分の好きな事をすることもだ。
呼吸法を含めリラックス貯金をすることもだ。
瞑想もいいでしょうし、自然との交流。
マインドフルネスもいいのでしょう。
論理療法を学ぶことも有効だ。
汝自身を知れとは1000年以上の時を超えて残る言葉だ。
他者との境界は育っていく段階。そう境界を確立していく段階。
境界が育っていない親は確立の後押しが難しい場合がある。
自分と親との間に明確な境界を築いていないと、子どもは親と一体化した関係を脱することができない。
そのまま放置すれば、他の人間関係を築く上でも同じパターンをなぞることになる。
いつも他者の面倒を見なければとなってしまう。どんな状態の自分であっても。
そして、境界の確立と自律は健康に不可欠である。
境界は目に見えない。
それは「私」というものを意識的に定義しようとするときに、心の内奥に感じる感覚である。
このプロセスは「人生と人間関係に自分は何を求めているのか、もっと何を欲しいものは何か、減らしたくないものは何か、欲しくないものは何か、私が超えたくない限界はどこまでか」と自分に問うことから始める。
こうして私たちは自分を定義しようとする中で、今という特定の時に、自分の内奥にある中核に照らして、自分は人生に何に価値を置き、何を欲しているかを明確に知る。
自分を支配する中核は自分自身の中にあるのだ。
要するに自律とは、私たちを支配するこの内奥の中核を成長させることなのである。
ここまでは、外国のお医者さんの見解。
他者の状況や気持ちに勝手に無条件に反応して、自分自身を越えてゆくのは、まさに他律ですね。
自分を振り返って、中学、高校と上がるに従って、独立、自立は知らずと自分のテーマになってゆく。親がかりだけれども、「自分で決める」その力を大きく育てる。
親からすれば「自分のことは自分でしろ」という風に変化していく。
かなり偉そうになっていったなぁと今は思う。
大学進学、就職と相談せずに決めて行った。お金は誰に出してもらうの?という自己突っ込みはあるけれど。
段々と口を出すことは少なくなっていったと思うが、心配していたと思う。でも、「俺は大丈夫なんだ」という事を親や自分に示したかったのかも知れないと今は感じる。
周囲から見れば、いつまでも「おとうちゃん、おかあちゃん」の甘えたような、自信の無い子どもに映っていたかも知れないなぁと思う。
少し別な視点も浮かぶ。
エニアグラムと言うと私はタイプ2だと思っている。境界が築きずらい。
元来そういう資質を持った脳であり、自我なんだなぁと思う。育ちに「すべて」影響を受ける訳ではない。
だからか、タイプ2幾つになっても、他者との境界は引きづらい。他者の様子がとても気になるのだ。
しかし、私の親は見守り、ある意味突き放してくれた、干渉しすぎということはなかった、好きにやらしてくれた。
親になり、自分の子やよその子を見ると、親や親しい方に甘え上手と思うことが多い。羨ましいと感じることもある。おじさんになっても甘えたいという心は在るのだ。
そんな性質があるのを親は知っていたのか、弱弱しく感じたのか、逆にのびのび自由を旨として育ててくれ、私の中にもそれに応じる事が出来るものがあったのだと思う。
今も自己愛的な苦痛が残っていたとしても、もっと広大なものが私の中に育っている様に感じる。
子ども時代を振り返ると、尊敬できる先生や先輩の言う事、為すことを素直に信じ、無条件に受け入れていた時代があった。そうする事によって他者に受け容れてもらえ、そこに「喜び」があったのだ。
それを幾つになっても、無条件にするのはどうかなと思う。
他者は私をあなたを面倒を見る為にいるのではない。この当たり前こと、冷たいとかそうでないとかではなく。
要は自分自身の面倒を見る力を育てる事なんだ。中核を成長させることなんだ。
タイプ2はその中核を育てると他者に受け容れてもらえ以内という思い込みの精神構造が動いている。
意識的に育てることだ。他者は中核を育てたあなたに安心感を持つのだから。
中核を持って育ってもらうことを阻害する他者はきっと同じような思い込みがあるに違いない。
そんな思い込み、幻想、フュージョンから抜け出るのだ。
思い込みを取る方法というか、心を成長させることは出来ることは朗報だ。
無条件に聴いてもらうことは、最も辛い思い込みに気づき手放すことを可能にしてくれる。
自分の好きな事をすることもだ。
呼吸法を含めリラックス貯金をすることもだ。
瞑想もいいでしょうし、自然との交流。
マインドフルネスもいいのでしょう。
論理療法を学ぶことも有効だ。
汝自身を知れとは1000年以上の時を超えて残る言葉だ。